イサム・ノグチ(Isamu Noguchi)について

FURNIXが手がけた家具たち

  1. デザイナーズ家具の買取TOP>
  2. FURNIXが手がけた家具たち>デザイナー詳細(イサム・ノグチ[Isamu Noguchi])
イサム・ノグチ

イサム・ノグチ
[Isamu Noguchi]

説明
1904年ロサンゼルス出身の彼はコロンビア大学に入学し、医師を志すかたわらレオナルド・ダ・ビンチ美術学校で彫刻を学ばれました。
そして、彫刻を手がけたりしながら、1947年にはハーマンミラーのデザインディレクターであったジョージ・ネルソンに請われ「ノグチ コーヒーテーブル」という、半世紀以上も支持されている名作を作り上げました。

さらに、2004年に生誕100周年を迎え、これを期にヴィトラ・デザイン・ミュージアムが販売権利を獲得し、様々な商品が復刻されています。

1904年アメリカ・ロサンジェルスで生まれ、コロンビア大学に入学し、医師を志すかたわらレオナルド・ダ・ビンチ美術学校で彫刻を学ばれました。
父は、18歳でアメリカに渡り、当時全米で詩人ヨネ・ノグチとして有名だった日本人、野口米次郎。そして母はその翻訳を手伝っていたアメリカ人、レオニー・ギルモア。
2歳のとき初めて父の国、日本へ渡り幼少期を過ごす。
神奈川県茅ヶ崎の小学校へ入学するも学校に行くことを拒否し、道端の石を削って遊ぶことが当時のイサムにとって唯一の楽しみだった。
母は、登校を拒むイサムを近所の大工のもとに通わせ、モノつくりの楽しさを覚えさせた。
13歳でアメリカへ単身渡米しインディアナ州の「インタラーケン」校に入学。遠い日本から大工道具片手にやってきたイサムを不思議がっていた生徒たちも、工作の授業でイサムが作るいままでに見たことがない独特の彫刻に触れると、「東洋からやってきた天才少年」と、彼を受け入れた。
その後高校へと進学し、そこで医学の勉強を始める。

18歳のとき、名門コロンビア大学に入学するが、日本医学の父ともうたわれた野口英世との出会いにより芸術家の道へ進むことを決心する。
レオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校彫刻クラスへ通い、大学を中退。並外れた才能で入学して3ヶ月で異例の個展を開催。彫刻家を志す。奨学金でパリに留学し、彫刻界の巨匠コンスタンティン・ブランクーシの助手を務め抽象彫刻を学ぶ。26歳のとき京都を訪れ、日本庭園に感銘を受ける。
1940年、イサム35歳。報道記者たちをモデルにしてつくった作品「ニュース」が当時ニューヨークの新しい象徴として世界中の観光客が集まる建物ロックフェラーセンターの1階、AP通信社正面玄関に飾られ、ステンレススチールで作られたこの作品は評判を呼び、「ニューヨークタイムズ」紙は、「芸術作品としてだけでなく、最新技術面からしても大勝利」と絶賛。
この作品でイサムは一躍アメリカトップアーティストの仲間入りを果たし、ついにアメリカ社会に受け入れられたかに見えた。
しかし1941年の真珠湾攻撃により日系人の人種差別が激化。翌年、日米混血のコミュニティを持てると信じ日系人の強制収容所に志願して入所するが、逆にスパイの容疑をかけられ孤立してしまう。第二次世界大戦終結の翌年、ニューヨーク近代美術館に出展した作品が絶賛され、アメリカ美術界の第一線に返り咲く。

3度目の来日。父が教鞭を執った慶應義塾大学教職員ホールの室内デザインを引き受ける。翌年には広島平和記念公園の橋を設計。1952年、AKARI誕生。1956年、パリ・ユネスコ総本部の庭園を手がける。日本各地の石を持ち込み、3年半かけて日本庭園が完成。これを機に銀行や大学図書館、IBM本社の庭園など数多くを任される。1960年、イスラエル国立博物館に隣接する約二万平方メートルの敷地にビリー・ローズ彫刻庭園を制作。

香川県牟礼にアトリエを築き、大阪万博の噴水彫刻、生け花・草月流の草月会館ロビー石庭など日本でも数多く活動をする。1985年、自分の死後も作品を残す場としてニューヨークにイサム・ノグチ庭園美術館を設立。初期からのほとんどの作品が収蔵されている。翌年、ヴェネツィア・ビエンナーレのアメリカ代表に。1987年、レーガン大統領よりアメリカ国民芸術勲章受章。1988年に札幌「モエレ沼公園」設計に着手するが、その年の12月にニューヨークで死去。
商品リストへ戻る

このページの先頭へ

主な買い取りデザイナー

[デザイナー一覧]

主な買い取りブランド

[ブランド一覧]
FURNIX
柏ネットセンター【オフィスバスターズ ERC内】〒277-0931千葉県柏市藤ヶ谷1926-29
TEL: 04-7199-7499 FAX : 04-7191-6511
営業時間 : AM10:00〜PM7:00(土曜・日曜定休)※駐車場あり